これまでについて。あるいはプログラミングの独学について。①

これまでについて。あるいはプログラミングの独学について。①

5年後くらいの初心を忘れた自分か、あるいは独学でプログラミングを始めようとしている人に参考になってくれたらと思う。

ぼくはプログラミングを独学で学んだ。

初めて触ったのは、3年前。
ぼくはフリーターとして人生の谷底で、泥の沼のなかを地を這うように、かろうじて己の意思のみで前進していた。

少し、昔話をさせて欲しい。

高校を卒業してから、
第一志望、第二志望の大学に落ち、滑り止めの第三志望にはもともと行くつもりがなかったため、晴れて浪人生活を始めることとなった。
その頃のぼくは大学に行くつもりは毛頭なかった。

受験する年、高校三年生の秋頃から、これは第一志望の大学には行けないのではないか、という不安に押しつぶされ、自分の計画性の乏しさ、やってみなければ分からないだろうという無謀さに心底嫌気がさしていた。

見事に落ちた後は、いくら落ちることがわかっていたとはいえ、全く歯が立たなかった自分の不甲斐なさから死んでしまいそうだった。
受験の終わり頃にぼくを不憫に思ったのか、今まで買い与えられなかった携帯電話を買っていただき、友達との連絡には使わずに、自分の部屋に閉じこもり、布団に包まりながら2チャンネルまとめを読んでいた頃が懐かしい。

少し外の空気を吸おうかと近所の大型書店に足を運ぶ。

いつものように1階のフロアを一周してからエレベーターを使って2階へ。
ふと、2階のあるコーナーのある本に目が止まる。
高橋歩さんのコーナーだった。

パラパラめくる指。
しだいに一ページあたりの熱量にパラパラとめくれなくなる指。
自分の少ない残金を使い本を購入。

彼の本にどれほど救われたか。

人生におけるレールから外れてしまった自分への救済だった。

よし、働いてみるか
という軽いノリ、いや、いつもの無謀さだけで上京した。

アパートすら借りることができない身分に凹みながら、
東京と埼玉の県境のシェアハウスにかろうじて住むことがかなった。

すぐに近くのコンビニにアルバイトを申し込む。

世間知らずの18歳は、夜勤で働いた方がお金もらえるじゃん。そして、昼間に別のアルバイトをやったら一気にお金貯められるんじゃね。
というくだらない発想から夜勤のアルバイトについた。
仕事が覚えられない。タバコの銘柄が覚えられない。夜のお客さん恐い。
ということで無事に死亡し、パートのおばさんと言い争いになって3週間でアルバイトをやめた。
※この3週間働いた分のお金は受け取っていない。

その後、新聞配達の求人を見つける。
なんと月給28万〜と記載されているではないか。
世間知らずの18歳はそんなこんなで新聞配達の仕事を始める。

今思えば、新聞配達をしていた2ヶ月間は人生で最悪の2ヶ月間だった。

夜の1時ごろに起き、歩いて5分の配達所へ。
新聞が配達所へ到着するのを待ち、別に到着していたチラシを新聞紙の中に入れていく。
その後、原付に積載重量を超えた量の新聞を積み、よろよろと運転せざるをえない状態で配達を開始する。
配達エリアは品川の高層マンション街。
坂道が多く、運転が不慣れなこともあいまって時間通りに配達をするのが難しい。

1分でも遅れれば、配達所にクレームが来て、配達所で待機している先輩からぼくの携帯へ電話が来る。

朝の配達後、家に戻り、仮眠をとる。
本当はしっかり眠りたいのに、日光を浴びてしまったからうまく寝付けない。

数時間眠り、昼過ぎに配達所へ。
夕刊の配達の準備と、夜の配達分のチラシを準備する。
夕刊の配達は夜の配達に比べれば易しい。
配達部数が夜に比べれば少ないし、新聞自体が薄く、片腕に収まるためマンションの配達で走りやすい。
そう、新聞配達は常に走っていないと遅配につながりクレームになる。
今なら笑えるがやっている当時はマジで笑えない。

1ヶ月が経ち、初めての給料。
なんと14万円。
はじめてブラック企業というものを経験した。
すぐに抜け出さなければ自分はダメになる。と思ってからは早かった。
すぐに長に言いにいき、怒鳴られながらも、なんとか一ヶ月後の退職を決める。
今思っても、このときにすぐに退職を決めたのは本当によかったと思う。
これ以上やっていたら心の病とか、本当に笑えない。

退職後、実家に戻る。
不甲斐ないし、情けないが、一旦戻って態勢を整えなければならないと思ったのだった。
このときに大学に行こうと思った。
自分の実力不足を身を以て実感した。
そうしていかないと、あのようなヒエラルキーの底辺を彷徨うのではないかという恐怖があった。

祖父の家に身を寄せる。
逃げ帰って来た身分で実家にいることの肩身が狭かったからだ。
だがしかし、勉強に身が入らない。
東京にいた3ヶ月で一年分のエネルギーを使い切っていた。
勉強はするのだが、内容が頭に入ってこない。

そんなこんなで浪人1年目は大学を受けなかった。
直前になって、専門学校への入学に進路を変える。

まさか自分が専門学校に行くとは高校生の時は夢にも思わなかった。
落ちたものだ。と自分に失望する。

専門学校の学校生活は悪いものではなかった。
やはり、学校生活は楽しいものだなと友達とダベリながらそう思った。

アルバイトもはじめた。
ドラッグストアとコンビニのバイトを掛け持ちした。
最初のバイトのリベンジである。
あの頃は仕事が覚えられず全くのダメバイト君であったが、
仕事をすることへの無用な期待など当に持っていなかったぼくは、
ただ淡々と仕事を覚えた。
結果、仕事は結構早く覚えられて、正社員の方たちにも重宝していただいたと思う。

10ヶ月近くが経つうちに自分の生活に対して、本当にこんなんでいいのだろうかという疑問を持つようになった。

学校生活は易しかった。
専門学校の授業は簡単で、つまらない。
全力を出さなくてもいい点をとることはできたし、年下のやつらと話していてつまらないと感じてしまう自分がいた。
話自体は面白いのだが、話の内容の深みがない。
こんな生活をしていて自分は本当に大丈夫なのだろうかと思った。

そのころ、バイト仲間で特に親しかったヤツがいた。
年は同じであったが、趣向が似ていた。
そいつはインターネットビジネスをやっていて、すでに月に10万円ほど収益を得ていた。
自分の学費はそれを元に自分で払っていたという。
こいつにできるのなら自分もできるだろうという、いつもの無謀さで挑戦するが、全くうまくいかない。
自分は社会不適合者だ。という実感はあったから誰にも雇用されず、自分でビジネスをもって生活することができれば、なんといいことだろうかと思っていた。

高校のころまでに思っていた自分との乖離が苦しかった。
自分はなんでもできる人間ではなく、ある特定の分野に己のリソースを集中し、努力することをせずして、自由な人生を歩むことはできないのだと悟った。

年度末に担任の先生に専門学校を退学したい旨を伝えた。
親を説得するのは難しかった。いや結局説得することができず、半ば無理やりに行動に踏み切った。
結局、先生と親との話し合いの中で1年間の休学という決断をすることにした。

まずは、ビジネスの原資と奨学金の借金返済のため、
旅館のリゾートバイトを行おうと山梨に向かう。
与えられた住処は旅館から10分ほど山を登った先にあるボロアパートだった。
同じ日に入所した1歳年上の人と仲良くなった。

その人は仕事ができなかった。
ぼくは割となんでも器用にこなす人間であったからある程度の業務内容の共有をしてもらえれば大抵のことはできた。
だが、またしてもぼくは3週間でそのリゾートバイトを辞めた。
理由は、残業代を支払わないばかりか、残業しなければならないのは、お前たちの事務処理能力が低いからだろうという人格否定に腹が立ったから。
その人がその後どうなったかはわからないが、たぶん任期の半年を全うしたのではないかと思う。
自分で言うのもなんなのだが、最初の一時的な仕事ができる、できないなどというのは、その人を判断する上で大して役には立たない。

季節外れの大雪の日にぼくは山梨のボロアパートを退所し、各停の電車に揺られて東京の多摩へ向かった。

高校のころ野球部で同僚だった友人の元を訪れた。
成人式も行かず、高校を卒業してから長い間音信不通だったぼくを泊まらせてくれたことは本当にありがたい。
その友人ともうひとり、同じ高校の友人で酒を飲みながら語り合った夜が懐かしい。

話が逸れるが、
ぼくは、専門学校で保育士過程の短期大学をダブルスクールしていた。
そのため、保育園への保育実習に赴いたことがあったのだが、
日本の教育がなぜうまくいかないのかという根源を見たような気がしていた。
こんなダメ人間ながら人生のどこかで教育に携わりたい。という風に思っていたから、教育学部に通い小学校の教員を目指していた友人が、そのような状況を聞いてどのような感想を抱くかに興味があったのだ。
結果は、ぼくと同じ感想だった。すこし安心した。
現場に出て何年もあのような状況で働いている彼女たちはおそらくあの状況がおかしいということに疑問を抱かなくなっているのではないかと思う。
疑問に思い、それはできません。それは間違っていると思います。と言ったぼくは無謀だったが、あの空間や空気に流されて自分のポリシーに反した行動をしなかったことだけは誇らしい。
保育実習は2週間という短い間だったが、子どもたちと打ち解けられて、絆のようなものができたことは今でも本当によかったなと心から思うのだ。

話を戻そう。

またしてもぼくは、地元に逃げ帰った。
ここまでくると親は呆れている。
自分の息子の行く末に不安しか感じていなかったであろう。

ただしかし、ぼくは能天気だった。
19歳のときに逃げ帰ったときに比べたらなんてことはなかった。
半ば開き直っていた。
自分の頭の中で浮かんだアイデアは全て試してみよう。
一個一個試してみて、これだ!と心にピンと来たものでなければきっとぼくはできないだろう。
そんな人間なのだと、もはや自分を許すことにしたのだ。
なんでもできなければダメだ。と高校生の頃まで思っていたのが、今では息苦しい。
ダメでもいいじゃん。なるようにしかならないっしょ。
そんな心の持ちようである。